Heaven Sent:第二十一話
俺の涙で濡れた離婚届の上に理恵子の涙が重ねて落ち、二人の署名が滲んでいく。その離婚届を理恵子が拾い、代わりに通帳や印鑑を置き、頬を涙で濡らしたまま無言で部屋から出ていった。理恵子の後ろ姿を目で追いながら、心に空いたブラックホールのような底なしの穴の中に、希望という光とともに自分自身が吸い込まれていく気がする。
ドアが閉まる音とともにすべてが終わり、俺は涙を拭きもせずに床に寝転んだ。もう何もする気が起きない。ここ最近のゴタゴタと、昨夜から今日にかけて自身に起こったことを考えると誰だってそう思うだろう。真冬にゴミ袋を被って寝て、目が覚めたら離婚届けに署名、おまけに待ち望んでいた子供まで失ったのだ。今ごろ理恵子は市役所に向かっているに違いない。離婚届を提出して離婚成立、めでたく赤の他人に戻るってことさ。
でも、俺たちの結婚はなんだったんだ? お互い傷つき、双方の家族にまで嫌な思いをさせた。残ったものはクソみたいな思い出と、自分の子供を産み育てることすらできない人間のクズという事実だけ。立ち上がる気力も失せ、くすんでいく視界が捉えた、窓の外に広がる空に呪いの言葉を吐きかけてやりたい。
明日は日曜日、親父とお袋に離婚したって言わなきゃ……。月曜日は仕事納めだけど、本部でデスクワークをする気にならない。店舗に戻してくれって言おうか、それともいっそ辞めちまうか?
感情を吐き出す場所も相手もなく、徐々にオレンジ色に染まり始めた窓の外が涙のためか滲んでいる。ダンボール箱に詰め込んでる途中の荷物を見ても、荷物を片付けるどころか食欲すら湧いてこない。布団だけは敷いとこうと思い、ダルい体を無理やり動かした。カーテンを閉めて服を脱ぎ、薄暗い部屋の中で布団に入る。散らかったままの部屋の中で一人冷たい布団に寝ていると、この世界に一人ぼっちにされてしまったような寂しさや、世間から相手にされなくなってしまったような疎外感を感じてしまう。
もう、何もかもどうでもいい。俺は自分の子供ができたことも分からず、生まれることなく死んでしまったことにすら気づかない、最低のクズだ。待ち望んでいた我が子を、自分の将来と天秤にかけた女にすら愛想をつかされるダメ人間。このまま死んでしまったほうが家族にも迷惑がかからないのかもしれない。
いつの間にか日が落ち、真っ暗になった部屋の冷たい布団の中で物思いに耽る俺は、考えることすらどうでもよくなり、いつしか眠りに落ちていった。
翌日の午前中、目が覚めてすぐ実家へ行き、親父とお袋に離婚届にサインしたことを話した。
「そうか」
親父は一言だけ言い、お袋は下を向いたまま無言でいたが、僅かに震える肩がお袋が泣いてることを教えてくれている。
俺はお袋の涙を見るのが嫌で、荷物をまとめるからと嘘をつき、昼飯も食わずにアパートへ戻ることにした。
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