夢幻の旅:第二十六話
ケースを開きスマホの画面を見ると、電池が残り三十パーセントを切っている。
この先何日かの入院生活を考えて少々焦り、充電用のケーブルを持ってきてくれたか聞いてみた。
「良美、スマホのケーブル持ってきてくれた?」
「引き出しに入れてある」
「よかった、充電しておこう」
サイドテーブルの引き出しを開け、ケーブルを枕元にあるベッド備え付けのコンセントに差し込み、反対側をスマホにつなぐ。
テレビはカードを買わなきゃ見ることができないし、職業柄か本を読む気にもならない。仕事で大量の本を扱ってるためか、最近は雑誌すらも表紙を見ただけで満足してしまう。
俺は充電をはじめたスマホをサイドテーブルに置き、ベッドに寝転んで上を見ると、天井の四角い枠の中に蛍の顔が浮かんでくる。
ここのところ蛍と会ってない淋しさからか、無性に会いたくて仕方がない。良美も蛍と会ってくれると言ったし、退院したら蛍に話して三人で食事にでも行こう。
窓からの日差しが徐々に強くなってくる午前中。周りを見れば、同室の人たちは新聞を読んだりテレビを見たりして自由に過ごしている。たぶん、この部屋に重篤患者はいないんだろう。
ベッドに寝たまま病室の様子を窺っていると、良美から声をかけられた。
「あなた、蛍ちゃんに会いたいんでしょう?」
心の中を見透かされたような気がして、ちょっと驚いて良美の顔を見る。
「分かるのか」
「分かるわよ、そんな顔してるもん」
図星を突かれた照れ隠しで、俺は咄嗟に窓のほうを向いて顔を隠すが、良美は構わず蛍のことを聞いてきた。
「ねえ、蛍ちゃんってどんな子なの?」
「身長はお前と同じくらいでスリムなほうかな。性格はあっけらかんとした性格だと思う」
「ふ~ん。身長が高いところは似たけど、性格は父親似じゃないのね。あなたは悩むタイプだもん」
――まったく言いたいことを言いやがる。俺は身長一八ニセンチ、背は高いほうだと思うが悩む性格じゃないだろう? 蛍の性格は、ぜったい俺に似たはずだ。
俺は横を向いたまま「そうかな?」とだけ返したが、背後で良美がクスクスと笑うのが分かる。
そのままの体制で無言でいると、しばらくの間、人が動く気配を背中に感じ、ファスナーを閉める音と共に良美の声が聞こえてきた。
「じゃあ、私帰るから。明日の朝、また着替えを持ってくるわね」
「そうしてくれるか。ジョニーの散歩、頼むよ」
そう言って良美を送り、なにもすることがなく退屈な俺は、ベッドに横になって蛍の顔を思い浮かべているうちに本当に寝てしまった。
昼飯を食った後に医師の検診があり、終わるとスマホでニュースを見たりして暇を潰し、シャワーを浴びてから五時に夕食。夜八時に寝て朝六時に起き、朝食を食い終わると良美が着替えを持ってくる。
三日目には点滴生活から解放されるものの、代り映えのしない退屈な生活を繰り返して五日目、朝食を食べ終え着替えを持ってきた良美と話をしていると、看護師から診察室へ行くように伝えられて病室を出た。
廊下を歩き、同じ階にある診察室に入ると医師が座って待っている。
白衣の裾を靡かせながら、椅子を回転させて俺のほうを向いた初老の男性は、掌で椅子を指し示して俺に座るよう促す。
椅子に腰かけると、医師は片手にカルテを持ち、右肘を机に置いたまま話しはじめた。
「世良田さん、本庄厚生病院の医師から連絡がありました。以前受診された精密検査の結果が出たとのことで、直接お話ししたいそうです。すぐ退院して厚生病院へ行ってください」
「今すぐですか?」
「そうです。貧血を起こして当院に搬送されたことを話したんですが、あなたの貧血は検査結果に関係があるらしい。個人情報であるため、本庄厚生病院の医師も詳しいことは話しませんでしたが」
医師の眼鏡の奥に見える表情は、驚くほど無表情だった。その無表情さに合わせ、精密検査に原因があると言われると、やっぱり糖尿病になったのかと不安になる。
「分かりました。退院して、午後にでも本庄厚生病院へ向かいます」
俺は医師に挨拶し、診察室を出て病室へ戻った。
病室では、良美が椅子に座って雑誌を読んでいる。俺が病室に入ると良美は雑誌を閉じ、俺の顔を見ながら話しかけてきた。
「どうだった? 良くなってきてるの?」
「今すぐ退院して、本庄厚生病院へ行ってくれだってさ。精密検査の結果が出たんで、俺に直接伝えたいらしい。やっぱり親父の遺伝で糖尿病かな」
「心配しなくても大丈夫よ。大きな病気なら、この病院で分かったはずでしょ。退院手続きしてくる」
そう言って良美は受付へ向かったが、どことなく表情は不安げだ。自身も一抹の不安を感じつつ、ベッドの周りのカーテンを閉めて病衣を脱ぎ、私服に着替えはじめた。
店の駐車場に車が停めてある。良美に店まで送ってもらい、自分で運転して帰らないとだ。店舗のスタッフには、精密検査の結果を聞いてから退院の連絡をすることにしよう。
病衣をたたんでベッドの上に置きスマホをポケットに入れ、ケーブルや蛍の物かもしれない黒い日記をバッグに詰め、ベッドに座って良美が戻ってくるのを待つ。
手持ち無沙汰で三十分ほど待っていると、病室に戻ってきた良美が大きく溜息をつき捲し立てた。
「四日分だと思ったら五日分だって。六万円近くかかっちゃった」
「痛い出費だなぁ。厚生病院へ行ったら、また入院なんてことにならなきゃいいけどな」
「心配しすぎよ。普段から食事にも気をつけてたし、言われるのは煙草を止めることくらいでしょ」
悪戯っぽい笑みを浮かべて喋る良美に、俺は逆らわず頷くだけにしてベッドから立ち上がった。
「車に乗っていかなきゃだから、店まで送ってくれ」
二人で同部屋の入院患者に挨拶し、病室を出て久しぶりに朝日を浴びながら駐車場に向かう。
良美が乗ってきた黒い軽自動車に乗り込み、数日ぶりに運転する車の感覚を掴むように、ゆっくり車を発進させて病院を後にした。
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