Autographic 第四話:家路

創作長編小説

 明日には病室を引き払うんだから自分の荷物をまとめておこう。退院できる嬉しさに、着替えやマグカップを出してバッグに詰めていると、母さんがクスクス笑いなが話しかけてきた。

「退院するのは明日よ。まだ荷物を片付けるのは早いんじゃないの?」

「明日、退院したらすぐ病院を出られるようにしとかなきゃ! ねえ、小鹿野のおじさんの家に泊まりに行っていいか聞いてよ!」

「家に着いたら聞いといてあげるわ。お母さん、退院の手続きして一旦帰るから、お昼ご飯もちゃんと食べるのよ」

「分かってるよ。それより、必ずおじさんに電話してね!」

 母さんは「分かった」と言って笑いながら病室から出ていった。話し相手がいなくなった病室は急に静かになり、僕が動き回る音だけが響く。歩くときのスリッパの音、クローゼットを開ける音、紙袋を広げる音……。

 自分が立てる物音を聞きながら荷物を片付けるが、勉強するため持ち込んだ教科書を手にしたとき、僕はそれを持ったままベッドに座り込んだ。

(授業はどこまで進んでるんだろうなぁ……)

 数学の教科書をパラパラめくると二次方程式の例題が載っていた。クラスのみんなは、これを簡単に解けるようになってるんだろうか? それとも、もっと先まで勉強が進んでるんだろうか? 僕は高校へ進学できるんだろうか……。

 ベッドの横にある窓から差し込む、午前中の柔らかい日差しに照らされた教科書を見ながら、右手の指でページをめくる。二次方程式の解き方や因数分解、素数について記載されてるが、入院しながら独学で勉強してる僕は、まだ二次方程式がなんとか解けるようになったばかりだ。僕が希望する進学先は、今の偏差値ではもう少し頑張らないと入学できそうもない高校。地元の進学校で、東大や京大に進学する生徒もいる高校だ。

 教科書に目を落したまま高校進学について考えていると、ドアをノックする音が聞こえ、誰かが病室に入ってきた。

「大舘さ~ん、食事の時間ですよ~」

 枕元の時計を見ると十二時を過ぎてる。廊下に置いてあるカートまで自分の分を取りに行き、戻って食事をはじめた。薄味の目玉焼きをおかずにご飯を食べ、最後に残しておいた大嫌いなタコの酢の物を我慢して食べ終わると、飲み込んだ瞬間にブルルッと体に震えが走る。右手に持った箸を置き、嫌いな食べ物の味を消すためお茶を一口飲んでから、廊下のカートまでトレーを片付けに行き、僕は病室へ戻らずそのまま外へ向かった。

 エレベーターに乗って一階に降り、売店の横を通り救急搬送用出入り口から外へ出て、駐車場の隅に面した自動販売機横のベンチに腰掛け大きく息を吸う。あまり外来患者が来ない場所であり、本を読んだりするときに来る場所だった。退院して家に帰れる嬉しさに気がはやり、今は病室でじっとしてる気分にならない。

 小一時間ほど、病院に入ってくる車に出ていく車、駐車場を歩く人たちを見ながら暇を潰して病室に戻ると、母さんが来てて僕の荷物をまとめていた。

「秀人、修司おじさん、小鹿野へ泊りに来てもいいですって」

「本当!? 明日から行ってもいい!?」

 予期せぬ母さんの言葉に、僕は踊りあがって喜んだ。退院できるだけじゃなく、おじさんの家にも泊りに行ける。

「明日は家でおとなしくしてなさい。来週の木曜日は病院で検査しなきゃだから、明後日の土曜日から火曜日まで泊まれれば充分でしょ。でも、日曜日に猟友会の人と畑を荒らす鹿を駆除しに行くって言ってたから、あんまり相手してもらえないかもよ」

「な~んだ。じゃあゴローとハナも猟へ連れてっちゃうのかぁ」

 おじさんが猟へ行くんじゃ、飼ってる猟犬も連れて行ってしまうだろう。二匹の犬と遊ぶことを楽しみにしていた僕はちょっぴり残念に思い、心の中で舌打ちした。

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