夢幻の旅:第二十七話
駐車場から病院の前を通る道に出ると、東に向かって通勤ラッシュが終わった道路を走る。時間は朝十時過ぎ、交通量は少なく車は快調に走っていく。
やっと退屈な入院生活から解放されたためか、俺は自然と助手席に座る良美に話しかけていた。
「単調で退屈な毎日だったよ。厚生病院で検査結果を聞いて、大したことがなければ明日から仕事に行けるな」
「お父さんも糖尿病だったから、やっぱり糖尿病なのかしら」
「だとしたら、親父のように毎日インスリン注射だ。子供の頃から毎日見てたから、糖尿病じゃないことを祈ってるよ」
そう言って車窓の向こうに連なる雄大な山並みを見ていると、病院で息を引き取ったときの親父の顔が脳裏に浮かんでくると同時に、父が生前言っていた言葉が甦ってくる。
「そういえば、親父はよく言ってたなぁ。天国も地獄もない。人はみんな、死んだら自然に帰るんだって」
「やだ、縁起でもないこと言わないで」
陽光を浴びて輝く、山に囲まれた風景を見ながら車を運転し、良美とお喋りしているうちに車は勤務先の店に到着した。
「店舗に寄って話をしてくるから、先に帰っててくれ」
そう言いながら車を降り、「厚生病院へ行くんだから、早く帰ってきてよ」と言い運転席に乗り込む良美を先に帰して、俺は店舗に向かった。
自動ドアをくぐると、スタッフが忙しそうに仕事をしているのが目に入る。
「中林さん」
スタッフの一人、中林を見つけて声をかけると、中林は驚きの表情で振り向き、声をあげた。
「あっ、店長! 退院したんですか?」
「市民病院は退院したんだけど、医者から、精密検査を受けた本庄厚生病院へ行けって言われてね。もしかしたら、検査結果が悪くて厚生病院に入院することになるかもしれない」
自分でも不安に思っていることを喋るが、中林は人の話を聞くのもそこそこに、他のスタッフを呼んでいる。
まだ開店したばかりで客数が少ない店内、出勤していたスタッフ全員が手を止めて近くに集まってきた。
「店長、大丈夫ですか?」
「これから本庄厚生病院へ行かなきゃならないんだ。結果次第で、もう少し入院ってことになるかもしれない。後で連絡するから、みんな頑張って店を運営してくれ」
「お店のことは心配しないで、早く体を治してください」
「ありがとう。じゃあ病院へ行くから、頑張ってくれ」
俺の体を心配するスタッフが自動ドアの近くまで来て見送ってくれたので、駐車場に出た俺は後ろを振り返り右手を挙げた。
駐車場の隅に置いてある車まで行き、ドアを開けて乗り込みエンジンを始動させる。
五日ぶりに乗る車のハンドルの感触を確かめながら発進し、店の前の国道に出て家を目指して走りはじめたとき、ふと蛍の家が近いのを思い出した。
(そうだ……蛍に入院したことを話しておこう)
蛍が明子の父親と一緒に家に住んでるなら、この先の信号を右に曲がったところのはずだ。ここのところ蛍と会ってないし、入院してたことを話しておいたほうがいい。
俺が入院してる間に店に来て、俺の姿が見えないことで不安を感じてるかもしれないし、スタッフに俺のことを聞いて心配していることも考えられる。
目の前に見える赤信号の手前でウインカーを出して右折レーンに入り、信号が青に変わるとともに右折して蛍の家を目指す。
十字路を右折してすぐ左側の、森の中に作られたような路地に入って突き当りにある家が、蛍が住んでるはずの明子の実家だ。
(明子の親父さん、俺のこと怒ってるんだろうな……)
当然のことだ。娘を妊娠させ、結婚もせず別れた男を許す奴なんかいない。もし、蛍が妊娠して男が責任を取らなかったら、俺はその男を探し出して殴り殺すだろう。俺は、明子の親父さんに殺されても文句が言えない立場なんだ。
森が切り開かれ空き地のようになっている場所に車を停め、何度か深呼吸してからドアを開けて車外へ出る。目の前にある平屋に向かって歩いていくが、家屋は土埃に塗れ、雑草で下半分が見えない。
家屋の屋根瓦は何枚も落ち、ガラスは割れて壁には穴が開いている。明子の親父さんが大切にしていた植木も伸び放題で、町田家には人が住んでる気配がなかった。
(おかしいな……廃墟みたいじゃないか……)
門の表札には『町田』と書かれているし、記憶違いで他人の家に来たんじゃない。何度も明子を迎えに来た家だし、家の形も記憶どおりだ。
覚えている町田家と違うのは、明らかに人が住む気配がないことだった。声をかけてみようと思ったが、この荒れようでは人が住んでるはずがない。
俺は家を見ながら何歩か後退りし、引っ越してしまったんだろうと思いながら車へと戻っていった。
車に乗り込んで発進するものの、廃屋になってしまった町田家が気になり、ミラー越しに見てしまう。
だんだん小さくなっていくバックミラーの中の家は車が曲がると見えなくなり、俺は前だけを見て家路を急ぐことにした。
十字路を右に曲がって家に向かうものの、なぜ町田家が廃墟のようになってしまったのかが気になる。それに、この家に住んでないなら蛍はどこに住んでるんだろう。
そのことで頭がいっぱいになり、どこをどう走ったのかも記憶に残らず自宅に着いてしまった。
「ただいま」
車を降りて玄関のドアを開けると、食欲をそそる匂いがする。
靴を脱いで家に上がりダイニングへ行くと、忙しなく料理を作っていた良美が振り向いた。
「お帰りなさい。パスタ作ってるから、食べてから病院へ行きましょう」
「行きましょうって、お前も病院へ行くのか?」
「あたりまえでしょ? 糖尿病になったとしたら、どんなところに気をつけて生活しなきゃいけないか、聞かなくちゃじゃない」
一人で病院へ行く気になっていたので、正直面くらった。でも、病気だった場合は一人でいるより二人のほうがいい。一人だと、家に帰る気にもならなくなるかもしれない。
椅子に腰掛け話していると、良美が料理を皿に盛りつけて運んできた。
「さあ食べましょう」
トマトソースのパスタをフォークで絡め取り、口へ運ぶ。食べてる間も、二人の話は「糖尿病だったらどうするか」ということばかりだ。
パスタを食べ終わり、良美が食器を洗って出かける支度をする間、コーヒーを飲んで待っていたときだった。
スマホの着信音が鳴ったので見てみると、以前と同じで自分から自分に宛てたメールがきている。削除するためメールアプリを開くと、前とは違い本文が書いてあった。
『おとうさん』
――蛍か?
俺のことをお父さんと呼ぶのは、この世で蛍しかいない。でも、なんで自分から自分に宛てたメールに「おとうさん」なんて書いてあるんだ? 蛍から俺に宛てて送信したメールじゃないのに……。
気味が悪くなり、このメールを削除しようとしたときだった。
突然、家中の家具が揺れはじめたので、地震がきたと思い慌てて二階にいる良美の部屋へ走る。
二階の自室では良美が口に手を当てて座り込んでおり、腕を掴んで無理やり立たせて階段を駆け降り、玄関のドアを開けて家の外へ出た。
息を切らせたまま家を見るが、外から見た家は揺れてなどいない。
嫌な予感がし、おそるおそる玄関のドアを開けると、家の中で家具だけがガタガタ音を立てて揺れていた。
「あのときと同じだ……」
良美と顔を見合わせ、しばらく呆然としてたものの、家の前の道路を走るトラックのクラクションで我に返り、再び玄関のドアを開けてみる。
ドアの隙間から覗き込んだ屋内は静かになっていたので、俺は玄関に入って自分の靴と良美の靴を持ち出し、靴を下に置いてドアの鍵を閉めた。
「今のうちに病院へ行こう」
幸い、財布も保険証も持っている。
俺たちは靴を履くと、車に乗り急いで病院へ向かった。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません