夢幻の旅:第二十五話
廊下に出て右に行くと、突き当たって左側にテーブルやベンチが設置されたスペースがある。
その場所に人が多くなかったこともあり、窓際まで点滴をぶら下げたイルリガートルを押していき、ベンチに座って電話をすることにした。
イルリガートルからスマホに持ち替えてベンチに座り、電話帳から店舗の電話番号を探して発信する。
左耳にスマホを当てて待つと、二度コールしただけでスタッフが電話に出た。どうやら、今の時間はそれほど混雑してないようだ。
「お電話ありがとうございます。荒川ブックセンター、高田が承ります」
「お疲れさまです、世良田です」
電話に出たのはパートの高田だった。店長不在時、代行として仕事ができるのは中林と、電話に出た高田だけだ。
周りに人がいることもあり、気を使って小声で話しはじめた。
「何日か入院することになっちまった。三日か四日くらいだと思うけど、今週分のシフト、直しておいてくれないか」
「それはいいですけど……店長、大丈夫ですか? 春くらいから様子がおかしかったから、みんな心配してるんですよ」
高田の言葉に少々戸惑った。貧血を起こし倒れたものの、それまでは「体の怠さが抜けず、疲れやすくなったかな」くらいしか変わったところなどない。自分で感じたことであり、他人が見て気づくほどじゃないはずだ。
「俺、変わったところあったかな?」
「ありましたよ! 誰もいないのに楽しそうに喋ってたり、独りで喋りながら雑誌を持ってきてレジを打っちゃったり……」
「独りで喋ってた……?」
――そんな馬鹿な。
仕事をしながら独り言を呟くことはあるものの、独りで楽しそうに喋ることなんかない。いったい、いつ俺が独りで喋ってたというんだ。
ますます困惑し、どんな時に独りで喋っているのか、冗談めかして高田に聞いてみた。
「そんなに大声で喋ってたっけ? 俺だけ見てて、他の人が見えなかったんじゃない?」
「なに言ってるんですか! みんな店長が誰かと会話するみたいに独りで喋ってるの、見てるんです!」
「どんな感じで喋ってたんだ?」
「女の子と喋ってるみたいな感じでしたよ。レジで会計してた雑誌も、若い女性が読む雑誌だったし」
若い女性が読む雑誌……俺が自分でレジへ持っていき、会計したのか。
高田の話は、俄かには信じられない事ばかりだった。誰も側にいないのに楽しそうに喋り、商品まで会計しているという。まるで夢遊病者の行動のようだが、スタッフ全員が独りで喋ってる俺を見ているというなら、高田の話は本当に違いない。
「そうか……疲れてたのかな……」
「いい機会だから、ゆっくり休んでください。シフトは直しておきますから」
「そうしてくれるか。悪いけど、何日か休ませてもらうよ」
高田との会話を終えて電話を切ると、天井を見上げて溜息をつき、手に持ったスマホの電話帳から上司であるエリア長の電話番号を探し出して電話をかけた。
「もしもし、世良田ですが」
「もしもし、世良田店長ですか。店舗から連絡があって心配しましたよ。店内で倒れたそうですが、大丈夫ですか?」
「それが、医者から何日か入院するよう言われまして……」
俺は素直に話を切りだした。医師に入院するよう言われたんだし、仕事に穴をあけたくないが仕方がないことだ。それに今のエリア長は、入院する人間に向かって「自己管理不足だ!」などと言う人物ではない。
「そうですか……いい機会だし、少し休んでください。店舗には私が顔を出すようにしますから」
「申し訳ありません、何日か休ませてもらいます」
「そうしてください。出勤できるようになったら、また連絡をください」
「分かりました」
電話を終え、ベンチに腰掛けたまま再び天井を見上げた。
仕事を休むのは仕方ないこととしても、高田が言ってた「独りで喋ってた」というのが気になる。俺に自覚はないものの、店舗のスタッフ全員が見ているというのだ。
病室へ戻ろうと、ベンチから立ち上がってスマホをズボンのポケットに入れ、代わりにイルリガートルを押して歩いていく。
廊下を進んで病室へ行くと、まだ良美が忙しなく動いている。朝早くから大変だと思い、少し休ませてやろうと声をかけた。
「良美、少し休んだほうがいいよ」
「心配しなくていいの。お昼前には帰るから。それより、会社は休めそう?」
「エリア長にも連絡して、何日か休ませてもらうことになったよ」
「じゃあ、入院して体を治してちょうだい」
「入院かぁ……じゃあ着替えて寝るか!」
スマホをズボンのポケットから取り出してベッド周りのカーテンを閉め、クローゼットから病衣を出し着換えはじめた。
「持って帰るから、洗濯物はバッグに入れてちょうだい」
良美に言われ、下だけ病衣に着替えてからスラックスと靴下をバッグに詰め込み、ベッドに寝転んだ。
それにしても高田の言葉が気になる。右手を額に乗せて考えてみるが、自覚してないためなのか独りで喋っているということが信じられない。
もしかしたら家でも独りで喋ってるかと思い、良美に尋ねてみた。
「なあ、さっき店に電話したとき、パートさんから、独りで喋ってることがあるって言われたんだけど、俺、家でも独りで喋ってるかな?」
「独り言なら言ってることがあるわよ」
「いや、独り言じゃなく、誰かと会話してるみたいに大きな声で喋ってるとか」
「誰かと喋ってる? そんなことないけど……」
視界の真ん中にいる良美の顔には、戸惑いの表情が浮かんでいる。良美は俺の言葉に不安を感じているに違いない。
不安げな面持ちの良美を見ながら、俺は冷静な口調で話を続けた。
「電話しながら、俺の行動は夢遊病患者みたいだと思った。だけど、夢遊病なら睡眠中に行動を起こすはずだ。なぜ俺は、働いてるときだけ独りで喋っているんだろうな?」
「そんなこと、私には分からないわ。仕事でストレスが溜まっちゃったんじゃない?」
「そうかもしれないな。もっと売り上げを上げなきゃいけないし、ストレスかもな」
良美に聞いても仕方がないことだ。だが、これで独りで喋るのは仕事中だけだと分かった。やはり仕事のことで、自分でも気づかないうちに精神的ストレスがかかっていたのかもしれない。
(これも最近の体調不良のためだ……)
そう思うことにして、俺はサイドテーブルに置いたスマホに手を伸ばした。
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