夢幻の旅:第一話
人の一生はあまりにも短い。これまでの人生を振り返れば走馬灯のように過去が甦り、幻だったかのように消えていく。過ぎ去りし日々に後悔があろうと変えることはできず、悔いなき人生を全うした人も存在しえない。
一期一会の出会いを大切にし、人に優しく親切に接することは己の人生を豊かにしてくれる秘訣であるが、時を刻む時計の針がスピードアップしているような時代、現代人である俺は実践できずに過ごしてきた。
夕暮れの薄明りの中、田舎町の片隅を流れる小川の傍らに立ったままそんなことを考えている自分に気づいて馬鹿馬鹿しくなってしまい、小川の横に建つ自分が働いている店舗の灯りを見ながら煙草に火を点け、煙を吸い込んだ。数時間ぶりに吸う煙草で心を落ち着かせ、持っていた缶コーヒーを開けて一口飲む。
(あの娘、今日もここに来るかな……)
妻が晩飯を作って待ってるんだから早く帰ればいいものを、俺はあの娘が来るのを待っている。初めて勤務先で見かけた日から、理由は分からないが俺に懐いてる女の子。今日は店に買い物に来なかったから、この小川に来るはずだ。
初めて出会った日から、何故か俺はあの娘に会うのが楽しみになっていた。若い頃付き合ってた恋人、町田明子に似た面差しのあの娘に。
小川の前に聳える山の向こうに夕日が落ち、暗闇がオレンジ色の風景を飲み込みはじめた頃、背後から女の声がした。
「店長!」
「蛍ちゃん……」
女の子の声で、俺は振り返って名前を呼んだ。
ここ最近、毎日のように顔を合わせて喋っているが、俺は彼女のことを名前しか知らない。明子に似た娘だし、この場所も明子が住んでた街だった。もしかしたら、この娘は明子の子供かもしれないと心の奥底で思う自分がいる。
ニコニコ微笑みながら俺の側に立つ彼女を見ると、体に溜まった疲れが吹き飛んだ気分になる。缶コーヒーを一気に飲み干し、吸っていた煙草を空き缶に入れてから、俺は蛍と二人で小川の横にある畦道を歩きはじめた。
いつものことだが、歩きはじめると彼女は俺の腕を掴んで歩く。話すことは昼食に何を食べたとか、庭の草刈りをしてたら虫に刺されたなどの他愛もない話しばかりだ。
蛍の話を聞きながら三十分ほど畦道を歩いて辺りが真っ暗になってきた頃、どちらから言うともなく店舗の駐車場へ向かった。
「じゃあ蛍ちゃん、気をつけて帰れよ」
「店長も気をつけて帰ってね」
車に乗り込み、歩いて帰る蛍が闇に飲まれて見えなくなるまで眼で追うと、エンジンをかけて車を発進させた。
まるで恋をしてるガキのように、蛍と離れるのが淋しい自分がいる。今年五十歳になる枯れはじめたオヤジが若い娘に胸をときめかせ、仕事帰りにデートまがいのことをしているのが可笑しく、家路へ急ぐ車が波のように溢れかえる国道を運転しながらクスリと笑った。
――家に帰れば妻が待っている。早く頭を切り替えて家に帰ろう。
信号が赤から青に変わり、俺は停車していた十字路を左折して家に向かって走っていった。
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