第一話 Knife Edge 其の9
「うんめぇッ! 柔らかいぜッ! この肉は!」
ヘンタイロスが横を見ると、ポコリーノはフォークをステーキに突き立て、ガツガツと肉に挑みかかっている。見るからに頑丈なポコリーノの木製の歯はステーキを喰いちぎり、肉を狼の様に噛み砕いて腹の中に入れていった。
「ワシらも食べようではないか」
ザーメインに促されてヘンタイロスは料理に目を落とし、まずはソースに使われているバジルの匂いを楽しんでからヒラメにナイフを入れた。手に伝わってくるナイフが魚を切り分ける感触は、ポコリーノの巨大ステーキ同様、完全に火を通しておらず少々レアな感じである。生魚を好むイドラ島の食生活に合わせ、完全に火を通さない調理法なのかもしれない。チラリとザーメインを見ると、ザーメインは何度か頷きながら料理を頬張っていた。
ヘンタイロスもヒラメのムニエルを口にし、何度か噛んだ。ナイフから伝わってきた感触どおり、ヒラメは完全に火を通されていない。だが魚特有の臭みは感じられず、焼き加減とソースの味で一皿の料理として完成されている。
「美味しい! なんだかホッとする味付けねん!」
ヘンタイロスは注文したヒラメのムニエルが、料理として完成されている事を素直に認めて料理人に向かって賛辞を述べた。隣のザーメインを見ると先程の様子と違い、少し首を傾げている。ヘンタイロスはザーメインの態度を不思議に思ったが、まずは空腹を満たすため料理を平らげる事に集中した。
ヘンタイロスが味わいながら料理を食べていると、十六文ステーキなる巨大な肉料理を食べ終わったポコリーノが珍しく料理人に賛辞を贈った。
「フゥーッ! うんまかったぜオヤジ! あんたの腕は噂どおりだ! そこのアンチャン、すまねえがビールをくれッ! ビールをッ!」
ポコリーノが料理人を褒め、その隣で働いている若い料理人にビールを注文し、ポケットからナイフを取り出して歯間に詰まった食べ滓を掃除し始めたのをヘンタイロスは見てしまった! あと少しで食べ終わるのに、この馬鹿は食欲を失くす様な事を……。だが文句を言えば喧嘩になるだろう。ヘンタイロスは喉まで出掛かった言葉を飲み込み、最後の一切れを口に運んだ。
ナプキンで口を拭き、食後に出された紅茶を飲んでいると、隣のポコリーノはもう四杯目のビールを飲み終えるところだった。
「ヘッヘッヘ、ちょっと便所に行ってくるぜ」
ポコリーノが席を立った隙にヘンタイロスはザーメインに目配せし、お互いに頷いた。支払いをポコリーノに押し付けて帰る事にしたのだ。そんな事を知らない上機嫌のポコリーノは、陽気な歌声を便所から響かせていた。
「亭主、便所に入っておる者が勘定を払う。馳走になった」
「ありがとうございました」
ザーメインとヘンタイロスが席を立ち、歩き始めたと同時に若い料理人たちの挨拶が響き渡ると、出入り口に向かって歩いていたザーメインの脚がピタリと止まった。そしてザーメインは振り返ると、料理人に向かって一言だけ呟いたのだ。
「あがりの紅茶が美味すぎるのぅ……。変えたほうがいいじゃろう」
「うッ!」
料理人は顔色を変えてジッとザーメインを見つめると、ザーメインが飲んでいた飲んでいたカップを手に取り匂いを嗅いだ。
「――お客さん、あんたいったい……」
呆然とする料理人は再びザーメインを見つめたが、その口からは一言発するのがやっとの様子だった。ザーメインは料理人から顔を背けると料理人の言葉には答えず、ヘンタイロスを伴って店を出た。
「この馬鹿野郎! 勝手に高い茶葉に変えやがって!」
店の中から聞こえてきたのは間違いだらけのポコリーノの歌に代わって、若い弟子を怒鳴りつける料理人の怒声だった。
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