ロックンロール・ライダー:第二十六話
朝起きてコンビニで朝食のパンと飲み物を買い、アパートに帰って食事をしながら財布の中身を確認する。
ルイスレザーの革ジャンを買ってしまったり、意図せずラブホテルへ行ってしまったため残金が乏しい。かなり節約しないと今月の生活が苦しくなってしまう。
今まで生活にかかる金のことなんて考えたこともなかった。
父が働き、母が家計を管理して成り立っていた家庭生活。金の心配をするようになり、親の保護下にあった今までの環境が恋しくなってくる。
だけど、この自由な生活は自分で働いて家計管理するから得られるものだ。なんとか節約し、伯父の家に世話になったり実家へ戻ることがないようにしよう。
部屋の掃除や洗濯など、溜まった家事を片付けながら過ごし、午後二時近くなったところで昼飯をどうするか考えはじめた。
(あの娘に会いたいなぁ……)
腹が減ってくると、なぜか蕎麦屋の娘が脳裏を過ぎる。ここ最近、そんなことの繰り返しだ。
中途半端な時間だが、蕎麦屋で昼飯を食べてライブハウスへ向かうことにした。
六月近くになって暑さも厳しくなってきたが、革ジャンと履き古したラバーソール姿でアパートを出て蕎麦屋へと向かう。
店先の暖簾をくぐると、聞きたかった声が出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ」
奥から出てきた娘と目が合うと、彼女の顔がパッと綻んだ。自然、俺も笑顔になる。
お茶を運んできた娘の顔を見ながら、食べたかった料理を注文した。
「カレーください」
「カレーですね。今日はお蕎麦はいいんですか?」
「あっ……じゃあ、盛り蕎麦ひとつ」
「かしこまりました。カレーと盛り蕎麦お願いします!」
父親であろう人に注文を伝えると、娘は奥に行ってしまった。
これからライブハウスヘ向かうのに、俺の心臓は違うことで高鳴っている。
革ジャンを脱いで椅子の背もたれに引っ掛け、あの娘が顔を見せないか店の奥をチラチラ見てしまう。
蕎麦屋独特のカレーの匂いが漂いはじめてすぐ、娘が料理を運んできた。
「お待たせいたしました。カレーと盛り蕎麦です」
料理と伝票を置き、すぐ行ってしまうのかと思ったのも束の間、割り箸を持った俺の耳に彼女の声が聞こえてきた。
「これからお出かけなんですか?」
突然のことで驚き、口から蕎麦を滝のように垂らしたままの顔を彼女に向けてしまった。
お盆を胸に抱えて微笑んだまま立っている娘を見てハッとし、思わず眼を逸らして一瞬の間を開けたものの、再び心臓が早い鼓動で動きはじめたのを感じる。
「これからスターグラフっていうバンドのライブへ行くんですよ」
「わぁ、いいですね。楽しんできてください」
そう言うと、彼女は微笑みながら奥へと行ってしまった。
ちょっと残念な気持ちになったが、今日は彼女と少しだけ話ができた。そう考えると落ち込みそうな気分も高揚してくる。
ニヤけそうになりながらカレーと蕎麦だけを見つめて手早く食べ、革ジャンを着て伝票を手に持つと再び彼女が現れた。
伝票を手渡そうとしたら手が触れ、お互いパッと引っ込める。
なんだか恥ずかしくなり顔を下に向けてしまったが、上目遣いに彼女を見ると頬が赤く染まっていた。
無表情を装いながらレジを打っていると思われる娘から釣り銭を手渡されたとき、また手が触れたことに動揺している自分がいる。
ハードコアビートのような鼓動を刻む心臓、きっと赤くなっているであろう俺の顔。もう周りの風景も目に入らなくなり、なんの音も聞こえない。
「俺、安養寺晃です」
恥ずかさで逃げ出したくなってたからなのか、咄嗟に名前を口走ってしまう俺がいる。どツボにハマるとはこのことだ。
(なに言ってんだ俺は……)
ますます恥ずかしくなり、釣り銭を握り締めたまま下を向いて店を出ようと歩き出したときだった。
「私、島村香です」
後ろから彼女の声が聞こえたので立ち止まって振り向くと、はにかんだ様子で微笑みを浮かべながら立っている彼女が輝いて見える。
なんだか急接近した感じがして気分が高揚し、古びた店内の椅子やレジまで光って見えるようだ。
気恥ずかしくなってきて何を言っていいのか分からなくなり、再び間抜けな言葉が口から出た。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
俺の間抜けな言葉に、彼女は手を振って答えてくれる。まるで夫婦じゃないか。
引き戸を閉めて何歩か歩いたとき、嬉しくなり両手を広げてジャンプした。
「今日はいいことあるぞぉ!」
前を歩く女が驚いた顔で振り向くが、周りのことなんか気にしちゃいられない。俺は今日、人生で一番ツイてる気分なんだ。
交通事故で曲がったガードレールも、通り過ぎる車も、踏切の古びた遮断機も、なぜか全部がフレッシュさを醸し出している。
スキップするような感じで駅まで歩き、電車にも陽気な足取りで乗車してしまう。
土曜の午後、車内は人が少ない。座席に腰を降りして電車が出発すると、目を瞑り頭の中でスターグラフの新曲を再生しはじめた。
今日のライブで演奏すると予想している曲に合わせて右手の中指で膝を叩き、車窓の外を流れていく風景を見ながら途中駅で乗り換え、新宿駅を出て都会の雑踏を歩いていても全てが新鮮に映る。
板野先輩とはライブハウス前で待ち合わせだ。時間は午後四時半、寄り道せずにロスト目指して歩いていくと、見覚えのある男がガードレールに座って煙草を吸っていた。
「先輩!」
「よう、安養寺」
板野先輩と落ち合い、少し喋ってから当日券を買ってライブハウスに入り、ドリンクを飲みながら始まるのを待つ。その間もパンクスが間断なく入ってきて、いつの間にか場内が人で埋まってきた。
人混みで薄暗く感じるライブハウスの中、終了後の待ち合わせ場所を確認していると場内が暗くなり、あちこちでメンバーの名前を叫んでいる。
「先輩、もっと前へ行きましょうよ!」
隣にいる板野先輩に声をかけた直後、スターグラフのメンバーがステージに現れ、大音量でオープニング曲の演奏をはじめた。
突如、隣にいたマイケル・モンローのようなへアルタイルの兄ちゃんがヘッドバンギングするのを見て、俺もモッシュの中で歌い叫びながら拳を突き上げ、飛び跳ねる。
鼓膜が痛くなるような爆音の中、もう先輩のことなどどうでもよくなり、俺の意識はステージ上のメンバーとシンクロしていった。
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