夢幻の旅:第三十一話

創作長編小説

 そんな気配を感じながら、放射線治療に投薬治療が続く毎日。

 ひどく体が痛むときは鎮痛剤の医療用モルヒネを処方され、頭がボゥッとしてしまい意識を保つのも難しい。

 ベッドに寝てるだけでも体中が痛い。特に背中の、肩甲骨の間の痛みが日々ひどくなり、痛みに耐えられず、うめき声を上げながら激痛を我慢することが多くなった。

 激痛に耐える俺を見てられないのか、看病を続ける良美も、俺が痛みを訴えると看護師に鎮痛剤の処方を頼むことが増えている。

 激痛に耐えられず鎮痛剤を処方された午後、微睡まどろみの中で見た夢は、リビングのソファーに座って小さな女の子を膝に乗せ、二人で微笑みながら俺を見ている親父の夢。

 微笑む二人と俺の間を、小さな頃から今までの記憶が甦り一気に駆け抜けていく。

「親父!」

 そう大声を出した刹那、誰かが俺の体を揺さぶり、気が付くと良美に話しかけられていた。

「大丈夫? なにか言ってたけど」

「親父の夢を見たよ……ソファーに座って、小さな女の子を膝の上に乗せて……」

 そう喋ると、俺は良美の言葉を待たずに話を続けた。

「振り返れば、人生なんて一瞬の夢のようだ……。人の一生はあまりにも短い。五十年なんて、あっという間に過ぎていく。人間は夢の世界を生き、幻の世界へ旅立つ存在なのかもしれない」

「人生はまだ長いわよ。諦めちゃ駄目でしょ」

 良美は俺の病衣を脱がせ、濡らしたタオルを絞り左腕から体をいていく。

 ぼんやりとしか見えない視界に入る、ミイラのように干からびた俺の腕は、血が通っているのが信じられないような土気色の肌色をしている。

 自分の病状が日々悪化しているのは分かっているが、改めて病状の悪化を実感する瞬間。

 体を拭いてもらいながら、なんだか室内が薄暗くなってきたと思い窓の外を見ると、昨夜から降りはじめた雨が激しさを増している。

 体をぬぐい終わり病衣を整えてもらっているとき、ベッドサイドに置いてあるスマホの着信音が鳴った。

「メールの着信音だ。誰だろう?」

「お義母さんかしら」

 ゼエゼエしながら言葉を発すると、良美が俺のスマホを手に取りメールを確認する。

 見れば、良美は不思議そうな顔で俺のスマホを見つめていた。

「どうしたんだ?」

「なあに、これ。送信者もあなたじゃない」

「なにか書いてあるのか?」

「最初に『おとうさん』て書いてあって、『おとうさんは、びょういんにいます』って返信してるわよ。その返信が『わたしは川にいます』って」

 ――来た。

 俺は、このしるしを待っていたんだと直感した。俺が返信したのは、死んだはずの蛍が俺に宛てて送ったメールに違いない。

 常識では考えられないことだろうが、自宅でポルターガイスト現象を体験した俺は、この世にいるはずのない蛍との交信を素直に信じた。

 俺のことを恨んでてもいい、憎まれててもいい。蛍の短い人生を考えれば、何度許しを乞おうと許してくれないだろうが、俺はもう一度蛍と会いたい。

 死人のように冷たくなった体に力を入れ、痛みをこらえながらベッドの上で無理やり上半身を起こした。

「店の横を流れる川まで連れて行ってくれないか」

「なに言ってるの? 外出許可が出る訳ないでしょう?」

「頼む……」

 良美の目を見つめながら、あの川に連れて行ってくれるよう必死に頼んだ。

 俺の想いが伝わったんだろうか、良美はバッグを持って立ち上がり、ベッドから抜け出ようとする俺を介助してくれる。

「看護師さんに見つかったときの言い訳、考えといてよ」

「分かってる」

 病室備え付けのクローゼットから傘を取り出し、俺たちは病室を出た。

 途中、エレベーターホールで看護師と擦れ違ったものの、なにも言われずエレベーターに乗り、一階の夜間通用口から外に出る。

 二人で一本の傘を差し、駐車場の良美の車が置いてある場所まで歩いていくが、目がくらみ足取りも覚束おぼつかない。それでも良美の肩を借りて歩き、後部座席に乗せてもらい車を発進させた。

 空は黒い雲で覆われ、ぼやける景色しか見られなくなった俺の目で見ても、しばらく雨は降りやみそうにないのが分かる。だが俺は、冷たい雨でも必ずそこへ行かなければならない。

 車が揺れるだけで身体に痛みが走る。座っているのも辛く、座席で横になり、目を閉じて我慢しようとするものの、耐えがたい激痛が間断なく体を襲う。

「クソッ! 骨が痛みやがる!」

 両腕で自分の体を抱きしめ、心の中で「早く、早く」と願うが、なかなか到着してくれない。

 車体にぶつかる雨粒の音を音楽代わりにして気を紛らわし、気力を振り絞って耐えていると、車が右折しスピードを落とすのを感じる。

 少しすると車が止まり、良美が後ろを向き心配そうな顔で俺を見た。

「あなた、着いたわよ。歩ける?」

「川で蛍が待ってる……」

 息も絶え絶えに言葉を発すると、良美は車を出て傘を差し、後部座席のドアを開けた。

 俺は無言のまま車を降りて降りやむことがない雨の中に立ち、良美が差す傘に入って川まで歩く。良美の腕を掴み、墓の中から這い出てきたゾンビのように。

 明子と蛍が交通事故に遭って落ちた橋のたもとから河原に降り、上流の方を見ると誰かが俺たちに向かって歩いてくる。

「蛍……」

「あの子が……」

 雨で滲む視界の中でチラリと見ると、良美は愕然がくぜんとした顔で蛍を見つめていた。

 無理もない。いま見てるのは死んだはずの人間なんだから。

「お父さん……」

 俺たちの目の前まで来た蛍は、激しい雨の中を歩いてきたというのに体が濡れていない。それどころか、今まで会っていたときと違い輝きすら帯びていた。

「蛍……本当に死んでるのか?」

 俺の問いかけに、蛍は悲しそうな顔でうなずいた。

「私、小さいときに死んじゃったから、お母さんとも引き離されて、ずっと一人で暗いところにいたの。お母さんに会いたくて泣いてると、怖い人が現れて私を川の中に沈めるところ。石を積んで遊んでたんだけど、誰かが壊しちゃうから泣いてばかりだった。寂しくて泣いてたら急に周りが明るくなって、おじいちゃんが私を綺麗なお花畑に連れて行ってくれたんだよ」

「親父が……」

 以前、おじいちゃんと一緒にいると言ってたが、明子の父ではなく俺の親父と一緒だったとは……。

 親父がソファーに座って微笑んでいる夢を見たが、膝の上に乗せていた小さな女の子は蛍だったんだ。

 きっと親父は、暗闇で泣き続ける孫を哀れに思い、蛍を助けたに違いない。

「おじいちゃんに、私のお父さんってどんな人か聞いたら、そこのお店で働いてるから会ってきなさいって。だから私、お父さんに会いに行ったの。日記を読んでもらって私のことを知ってもらおうとしたり、おうちの中で電気を消したり家具を揺らしたりして、いつも近くにいるのを教えてた」

 やはり、あの黒い表紙の日記は蛍の日記だったのだ。六歳で亡くなった蛍なら、日記の字が子供の字だったのも頷ける。

 それに、あの不思議な現象は、俺に自分の存在を教えようとした蛍の仕業だった。会ったこともない、我が子が生まれたことすら知らなかった父親へのメッセージ。

 自然と涙があふれ出し頬を伝う。娘への悲しみと自身への怒りが同時に湧き起こり、やり場のない感情が精神も肉体も破壊しそうになる。

 俺は崖の上から狂気の淵を覗き込み、飛び降りてしまいたくなるような衝動をこらえて喋った。

「明子は……お母さんはどうしてる?」

「お母さんは別の場所にいるけど時々会ってる」

「そうか……」

 もう死んでる人間のことなのに、なぜかほっとした。母親に会いたくて暗闇の中で泣いていた蛍は、明子とも会うことができたんだ。

 俺が親父のことを聞こうとしたとき、蛍が口を開いた。

「もう行かなきゃ。お父さんと会えるのはこれが最後です」

「待ってくれ!」

 蛍の体が輝きはじめ、全身が黄金色になっていく。俺は力を振り絞り、雨に濡れるのも構わずに近付き、両腕で蛍を抱きしめた。

「お父さん、良美さん、さようなら」

「蛍! わあぁーっ!」

 金色に光る蛍の体は俺の腕の中で次第に崩れ、光は無数のホタルとなって宙を舞う。

 雨を避けるように目を細めながら見るホタルたちは、やっと想いを果たしたかのように楽しそうに空を飛び、煙る雨の中、雲が下り水墨画のように樹木を覆い隠す山の向こうへ消えていった。

 降り注ぐ雨と涙が混じり、俺の頬を流れ落ちていく。罪悪感と後悔の念、自殺衝動を洗い流しながら。

 ホタルが飛んでいった方向から、なかなか眼をらすことができないでいると、いつの間にか良美が隣に来ていた。

 良美は俺を傘の中に入れ、手に持ったハンカチで俺の顔を拭う。

「俺は、駄目な人間だ……子供が産まれてることも知らず、死んでからも苦しませてたなんて……」

「そんなことない。蛍ちゃん、あなたに会ってやっと成仏できたんだと思う」

 心が破裂しそうな感情に喋ることもできず頷くと、良美は俺の腕を取って車まで歩き、俺を後部座席に乗せて車を発進させた。

 お互い何も喋らず、無言の時が過ぎる。まるで時間の流れが狂ったかのような不思議な空間の中で、なぜか俺の心が、静かな水面のように平穏を取り戻していくのを感じる。

 どこをどう走ったか記憶にないが病院に到着し、看護師の目を気にしながら病室に潜り込む。

 シャワーを浴びて新しい病衣に着替え、ベッドに横になった俺にブランケットをかけながら、独り言のように良美が呟いた。

「なんだか顔から険が取れたみたい」

 自分でもそんな気がする。今まで苦痛に耐えていたのが嘘のように心が穏やかだ。なんだか、春の陽だまりの中にたたずんでるような気分さえするのだから。

 俺は良美の言葉に、心の中で相槌あいづちを打った。

 それからは日々の治療も辛くなくなり、痛みも心の平穏で緩和されたような感じで、以前のように鎮痛剤を処方してもらう回数も減った。

 一度、長い間寝ていたような感じがして、目覚めると良美とお袋、お義母さんが心配そうに見つめていることがあったが。

 蛍と最後に会ってから、心が穏やかになっていくのと同時に、五感が急速に衰えていくのを感じている。

 喋ることも上手くできなくなってきた日、暗闇の中で光の点が飛び回る夢を見た。

「お父さん、こっちこっち」

 俺の目の前を飛ぶ光は、規則正しくかすかに明滅している。

(蛍……)

 目を覚まし、ベッドの横にいる良美に顔を向け、やっとの思いで言葉を発した。

「水を……」

 もう目も見えず、良美がどこにいるかも分からない。夢で見た点は今も俺の目の前におり、飛びながら近づいてきている。

(最後だ……)

 頭を持ち上げてもらって水を飲ませてもらうも、むせてしまいなかなか飲めない。

 なんとか一口飲み呼吸が整ってくると、どこにいるかも分からない良美に声をかけた。

「良美……」

「なあに?」

「ずっと……一緒にいてくれてありがとう……」

「なに言ってるの。龍勢祭りゅうせいまつりに連れて行ってくれるんでしょ。蛍ちゃんの日記を読んであげるから、早く病気を治して」

 良美も最後の時が近づいてきているのを感じるのか、涙で声がかすれている。涙の原因が、俺が死神に抱かれてるためか感謝の言葉からなのかは分からないが、結婚してから感謝の気持ちを述べることなど数えるほどしかなかったから、もう一度言えてひと安心だ。

「あら? こんなページあったかしら?」

 良美が不思議そうな声を上げ、そのページを読みはじめた。

『七月七日 おとうさんとあたらしいおかあさんとあいました。あたらしいおかあさんは、せのたかいやさしそうな人でした」

 良美が日記を読むと、暗闇の中で飛び回る光は嬉しそうに大きく回りはじめた。

 その動きに合わせ、俺の意識は引き寄せられるように光に近付き、自分の存在が暗闇に溶け込む感覚がしてくる。

「これ、この間のことじゃない? あなた……? あなた! あなた! 先生! 看護師さん先生を呼んで!」

 だが、俺の耳に良美の声が届くことはなかった。




創作長編小説

Posted by Inazuma Ramone