Autographic 第二十四話:ロミオ

創作長編小説

「アラスカの州都、ジュノーという街の郊外で実際にあった話なんだけど、湖が凍った冬に、メンデンホール湖の氷上を散歩してた夫婦の目の前に大きな黒い狼が現れて、連れていた犬が狼に近寄っていっちゃったのが始まりよ。お互い唸り声をあげて睨み合ってたんだけど、夫婦の呼ぶ声に反応して戻ってきた犬を見つめながら、黒い狼は悲しそうな遠吠えを響かせて湖畔の樹木の中に姿を消したの」

 学芸員が聞かせてくれた話しは、最初に黒い狼と出会った夫婦のジャーナリストである夫が、狼が現れた二千三年十二月からの六年間を記し本にしたのだという。

 その話しは、狼と犬と人間の交流の中で光と闇が入り交じり、ほんの少しの魔法が加わった希望と悲しみの物語だった。

 最初の出会いから、野生の黒い狼はジャーナリスト夫婦の生活の一部となっていく。それだけでなく、ジュノー郊外のメンデンホール湖周辺に棲みついた黒い狼は近隣の住民たちとも触れ合いはじめる。

 犬と人間が遊んでいると、まるで「遊ぼうよ!」とでも言うように近付いてきて、氷上を散歩している犬たちの中に入り込んできたらしい。

 通常、野生動物は極力リスクを排除して生きるものだが、まれに遺伝的近縁種である犬への好奇心が勝ってしまい、もっとも警戒すべき人間という天敵に近づく狼が存在する。

 黒い狼もその一匹だったのだろう。

 人に飼い馴らされていない野生の狼でありながら人や犬との絆を強めていき、言葉を持たない動物と人間の心温まる神秘的な交流がひっそりと始まったのだった。

 ジャーナリストの妻はその様子をシェイクスピアになぞらえ、黒い狼をロミオと呼びはじめる。

 夫婦の目には、警戒心が強いはずの野生の狼が人前に現れ犬と遊ぶ目的が、食べ物ではなく社会的な繋がりを持ちたいだけのように見えた。

 狼と犬と人の不思議な時間が始まったが、自然の中で暮らす湖畔の住民の多くはロミオの存在を冷静に受け止めていたものの、やがてメンデンホール湖から十数キロほど離れているジュノー市街でもロミオの存在が知られるようになり、状況に変化が生まれる。

 ロミオが有名になるにつれて見物人が増え、ロミオを挑発するような粗暴な振舞いをする犬連れの人間や、誤った知識でロミオと接する人間など、自分勝手な行動を起こす人は後を絶たない。

 ジュノーの街では狼保護派と狼駆除派の対立も深まり、連邦政府や州政府、地域の行政機関や地元の新聞社なども巻き込んだ騒動になる。

 ロミオと直接触れないよう距離を取りつつ、心はロミオに寄り添いながら湖畔の住民たちと一緒に狼を見守るジャーナリストは、自ら発起人に名を連ねて住民投票に漕ぎつけるも僅差で敗北。

 いつ殺されてもおかしくないような状況の中で、ロミオは好きな時にメンデンホール湖周辺に現れ、攻撃的な態度はいっさい見せず犬と遊び、森へ帰っていく。その後も数年間、ロミオは様々な危機をかいくぐり、気まぐれに湖に現われては犬たちと楽しそうに遊ぶ姿が見られたものの、二千九年九月を境に姿を現さなくなってしまう。

 あってはならない悲劇が起き、物語の幕は突然閉じられたのだ。

 心臓が握り潰されるような悲しい話である。やがて訪れるであろう終わりの気配が近づくほど、ロミオの美しい生が輝くほどに色濃く漂い始める死。凛々しく澄んだ、琥珀色の眼をしてたであろう一匹の黒い狼が僕に与えた衝撃は計り知れない。

 学芸員は、ジュノーの街ではロミオを語り継ぐ活動が進められていると言った。神話の世界からやってきたかのような一匹の狼が、今まさに神話になろうとしている。

 ロミオの物語は百年後でも人々に語り継がれているのだろうか? 僕は、ロミオの物語はいつまでも人々の心の中に生き続けていくと思う。

 立て続けに喋って話を聞かせてくれた学芸員がひと息つき、最後に呟くように話してくれた。

「ロミオの存在を疎ましく感じていた人たちも、ロミオを大切にする人たちに配慮して実際に駆除することは控えていたのに、結果はロミオの命だけでなく、人々が大切にしていた『何か』を奪うことになってしまったのよね」

 ロミオは、自然の凶暴さでも愛し受け入れられるのか、ある日突然、人間に与えられた試練でもあったのだ。危ういながらも続いた交流の長さをもって合格というべきか、悲劇的な最期をもって落第というべきかは分からないが、神様はロミオの命で、人間が自然に対してどれだけ畏敬の念を持てるのかテストしたような気がする。

 僕は生涯、この黒い狼の物語を忘れることはないだろう。

 神話など遠い過去の物語として投げ捨てられた時代に、お伽話のような物語を聞かせてくれた学芸員にお礼を言い、パンフレットをもらって三峯山博物館を後にした。

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