夢幻の旅:第二十四話
「良美、売店で水を買ってきてくれないか」
俺はベッドに横になったまま、クローゼットに荷物を収納している良美に向かって、水を買ってきてくれるよう頼んだ。
昨夜からの水分補給が朝食の味噌汁と水だけのためか、喉が渇いている。水分が足りなくて瞳まで涙が不足しているような感じだ。
本当は冷たいコーヒーでも飲みたいところだが入院した身、ペットボトルの水で我慢することにしよう。
「ちょっと待ってて。着替えをしまい終わったら買ってくるから」
そう言って、良美はテキパキと衣類を片付け、財布を持って病室を出ていった。
今のうちにと思い、イルリガートルを持ってトイレに行き、用を足して病室に戻ると良美が戻ってきている。
「お水、買ってきたわよ。残りは冷蔵庫に入れておくから、喉が渇いたら飲んで」
俺に水を渡すと、良美は残りのペットボトルをベッド横に備え付けられた冷蔵庫に入れていく。
ベッドに入って上体を起こし、左手に掴んでいるペットボトルのキャップを右手で捻ったとき、良美が不思議そうな声をあげた。
「あら? この黒い本はなあに?」
声を聞き横を向くと、良美はベッドサイドテーブルに置かれた黒い表紙の日記を見つめている。
「それは児童書の棚に入ってたお客様の忘れ物だ。見たときから気になってて持ってきたんだけど、たぶん知ってる人の日記だから、俺から返そうと思ってる」
「持ってきちゃっていいの? 大事なものなんじゃない?」
良美は日記を手に取り、不安そうな顔で俺のほうに顔を向けた。目には、人の物を持ってきてしまったことへの後ろめたさと同時に、そのことで咎められるかもしれない不安が滲みでている。
俺は良美の不安を悟り、安心させるように落ち着いた口調で話した。
「たぶん、それは蛍の日記だ。名前も書いてないけど、記されてる内容が俺と会ったときのことや話した内容なんだ」
「蛍ちゃんって、あなたの子供……」
「そうだ。俺も今朝日記を読んで気づいたんだけどね」
良美が戻ってきてくれたとはいえ、やはり蛍の話をするのはバツが悪い。蛍のことで、また良美の機嫌を損ねるかと思いながら顔をのぞくと、想像どおり複雑そうな顔をしている。
俺は良美に、蛍と初めて会った日からのことを口にした。
「初めて蛍に会ったのは三月末ごろだった。日記を見ると、もう少し前から店に来てたみたいだけど。レジで会計をするときに話しかけられて、いきなり俺の名前のことを話しはじめたんだ。光平って名前を付けたのは俺の親父だって」
「お母さんから聞いて、あなたと話すきっかけにしたんじゃない?」
「いや、俺の名前を付けたのは親父だなんて話は、蛍の母親にしてないと思う。知らなかったけど、お母さんはずっと前に死んでしまって、おじいちゃんと二人暮らしだそうだ。蛍のおじいちゃんとは挨拶くらいしかしたことがないし、いったい誰が蛍に俺の名前のことを教えたんだ? それに、日記には親父の誕生日のことまで書いてあるんだぜ」
そう話すと良美は無言になり、難しい顔をして考え込みはじめたようだった。
振り返ってみれば不思議なことばかりだ。いきなり話しかけてきて俺の名前のことを話し、明子の写真を見せて俺の子供だと言う。
なんとなくだが、蛍は自分の子供に違いないという感覚はある。血の繋がりからくるのであろう直感とでもいうのか、説明するのは難しいが。だが、明子も亡くなった今、蛍が俺の名前まで知っていることの説明がつかず、やはり誰かの悪戯ではないかという疑念が拭いきれない。
左手に持ったペットボトルの水を一口飲み、話を続けた。
「なあ、実は蛍は赤の他人で、俺を騙して財産を奪おうとしてるって考えられないか?」
そう言うと、良美は黒い日記をベッドサイドテーブルに置き笑いはじめた。
「考えすぎよ! なんで他人があなたの名前を知ってるの? それに、うちに財産なんて無いじゃない。小さな家と車が二台あるだけよ」
――それもそうか。
家計は毎月火の車、切り詰めて生活する有様だ。俺の財産なんか売ったところで、たかが知れた金額にしかならない。
「そんなことより早く体を治してよ。退院したら私を蛍ちゃんに会わせて」
「蛍に会ってくれるのか」
「どんな子なのか一度会ってみたいわ」
良美の言葉を聞き、どこか緊張していた心が急激に解れてきた。良美は蛍に会うことを決めている。俺も退院して、早く蛍と会おう。
緊張が解けたためか、会話は次第に雑談になっていった。俺の洗濯物が溜まっていたことやリビングが埃だらけだったこと、資源ゴミが捨ててなくて二週間待たなくてはいけないことなど、ほとんどが男の一人暮らしのだらしなさについてだったが。
そんな話をして時間を潰していると、看護師が病室に入ってきた。
「世良田さん、診察室まで来てください」
ベッドから起き上がり、良美を残して看護師の後に付いて診察室へ向かう。廊下を歩き、同じ階にある診察室へ向かうと、白衣姿に聴診器を首から下げた医師が座っていた。
「座って服を捲り上げてください」
医師の指示に従い、椅子に座って服を捲り上げると、聴診器を胸に当てての診察が始まった。胸や脇腹、後ろを向いて背中などに聴診器を当てられるが、医師は首を捻るばかりである。
「特に異音などはありませんねぇ」
腹部や胸を指で叩かれたりもしたが、特に異常は認められないようだ。念のため、医師には精密検査を受けたことを話しておこう。
「先生、会社の健康診断で血液の数値に異常があるらしく、十日ほど前に精密検査を受けたんですが」
「どちらの病院ですか?」
「本庄厚生病院です」
「そうでしたか……そちらの病院に聞いてみましょう。まだ貧血が治まってないようだし、あと数日入院してください」
入院決定か……店に電話してシフトを直さないとだ。
診察室を出て病室に戻り、良美に結果を話した。
「貧血が治まってないから、やっぱり何日か入院してもらうってさ」
「そうなんだ……」
「シフトを直さないとだから、店とエリア長に電話してくるよ」
そう言い残し、ベッドサイドテーブルの上に置いたスマホを持って、電話ができる場所を探すため病室を後にした。
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