夢幻の旅:第二十九話
しばらくの間、椅子に座ったまま天井を見ていたが、やはりというか、当然のことだが思考が停止してしまい何も考えることができない。
頭の中にあるのは『死』の文字だけ。
人は誰でも死ぬと分かっていながら、いざ自分の番になると、運命に抗うことができない人間の無力さを思い知らされる。
頭の中にある『死』の文字の周りを、まるでダンスするかの如く過去の出来事が現れては消えていき、やがて頭の中は、暗闇で不気味に光る『死』の一文字だけになった。
崩壊していく感情と停止する思考が、一気に人生を終わらせたくなる衝動に変わりそうになる。
考えられなくなった自分の頭で、おそらく俺は無表情なまま必死に思いを巡らす。突然、残りの人生が三ヶ月と宣告された自分の今後について。そして、俺が死んでからの良美の人生についてを。
全身の力が抜けたままデイルームの窓から外を眺めると、母校の小学校と中学校が並んで建っていた。その向こうには、子供の頃よく遊んだ丘にある、ジョニーを遊ばせているドッグランと公園が見える。
死など考えることもなく、ジョニーを連れて良美と二人で川を散歩し、ドッグランまで行って犬たちが遊ぶのを眺めていた。
俺が日常を過ごす目の前に広がる風景。その全てが色褪せていく感覚に襲われ、次第に冷たいものが全身を包んでいく。
死の恐怖に捕らわれたまま、立ち上がる気力も失せて椅子に座ったまま窓の外を見ていると、エレベーターが停止する音が聞こえた。
見れば良美が、両肩を震わせ泣きながらデイルームに向かって歩いてくる。
――これじゃいけない。
泣きながら歩く良美を見て、俺の中にあるスイッチのようなものが入った。
このまま死ぬわけにいかない。良美と一緒に家に帰り、また蛍と会うんだ。
「良美」
近付いてきた良美に声をかけると、涙に濡れた顔を上げて小走りに駆けてきて俺の隣に座った。
「緩和ケア病棟に個室を用意しますだって」
「緩和ケア病棟か……」
末期癌患者が入る、いわゆるホスピスだ。膵臓癌のステージ四、普通に考えれば、俺は末期癌患者だろう。
親父が入院しているときの、痛みで苦しんでいる様子が脳裏を過ぎる。きっと親父も、死の恐怖に苛まれながら痛みと闘っていたに違いない。
涙が止まらない良美を見ながら親父の最後を思い出していると、急に良美が俺の方を向き話しかけてきた。
「あなた、入院すること、蛍ちゃんに言わないと……」
そうだ。このことを蛍に言わなきゃいけない。だけど、俺が知ってる町田家には、もう誰も住んでないのを見てきたばかりだ。
「そのことなんだけど、市民病院から帰る途中で家に寄ったら……」
そこまで喋ったとき、不意に男から話しかけられた。
「よぉ、店長」
「三沢さん……」
振り向くと、見覚えのある老人が立っている。俺の勤務先の常連客、雑誌を定期購読してくれている三沢さんだった。
「どうしたんだい? 彼女泣いてるけど」
俺の正面に立つ三沢老人は、俺と良美を交互に見ながら不思議そうに尋ねてくる。
「ここに入院することになっちゃいまして……それで女房が泣いてるんですよ。三沢さんこそ、このところ店に来てませんでしたけど入院したんですか?」
俺の問いかけに、三沢さんは溜息をつき項垂れた。
「ほら、何度か癌の摘出手術をしたって言っただろ? また癌が転移しちゃっててね……」
「そうなんですか……」
なんだか、俺たちの会話の言外に、お互い聞いちゃいけないような雰囲気が漂っている。
俺は良美の顔を見て目で合図し、早々に会話を切り上げてデイルームから出ていくことにした。
「三沢さん、お大事に」
「店長こそ早く治して店に戻ってよ。あんたの店、山の中の街には貴重な店なんだからさ」
良美と二人で挨拶し、椅子から立ち上がって何歩か歩いたとき、ふと三沢さんが町田家の近くに住んでいることを思い出し、振り返った。
「三沢さん、たしか蕎麦屋近くの信号を曲がったところに住んでますよね? あの信号付近に、町田さんって家がありませんでしたか? この前訪ねたら、誰も住んでないみたいだったけど……」
「あぁ、昭一さん家か」
「そうです。娘さんが昔の知り合いなんだけど、どうしてるのかと思って」
俺の言葉を聞くと三沢さんは椅子を引き、テーブルに両手をついて腰かけた。
三沢さんは顔を歪め、悲しそうな顔で俺の目を見ている。
「明子ちゃんなら、二十年くらい前に交通事故で亡くなったよ。女の子が生まれたんだけど相手の男が逃げちゃったらしくて、昭一さん、すごく怒ってたな。蛍ちゃんって名前の可愛い女の子だった」
蛍の言うとおり、明子は亡くなっていた。それに、やっぱり親父さんは俺のこと、怒ってたんだ。
当然といえば当然だが、それより蛍と親父さんは、今どこに住んでるのか知りたい。
「お父さんとお孫さんは引っ越したんですか?」
「あの子も明子ちゃんと一緒に亡くなったよ。小学校の入学式に行く途中、明子ちゃんが運転する車が信号無視の車に追突されて、川に転落したんだ。二人とも即死だったらしい。ほら、店長の店の横の川だよ」
「そんな馬鹿な……」
三沢さんの話を聞き、自分の顔から血の気が失せていくのが分かる。
動転してしまい、どうしていいか分からず良美を見ると、良美も驚いた顔をして右手で口を覆って立ち尽くしていた。
「嘘だ……」
「嘘なもんか。俺は二人の葬式に出たんだ。昭一さん、孫の入学を楽しみにしてたし気落ちしちゃってさ。体が不自由だから一人じゃ暮らせないって、介護施設に入ったよ」
頭が混乱する……。俺は蛍と会っていた。明子が亡くなったのは蛍から聞いたが、その蛍も死んでるなら、俺が会ってた蛍は誰なんだ……。
「俺はこの前まで蛍と会ってた……俺の娘なんだ! 死んでるわけない!」
蛍が死んだという話が信じられない俺は、凄い剣幕で三沢さんに食ってかかった。
驚いた顔で俺を見つめる三沢さんは、なだめるように言葉を続ける。
「二人が死んでから、あの川に女の子の幽霊が出るって騒ぎになってね。店長、幽霊を見たんじゃないの」
そう言うと三沢さんは椅子から立ち上がり、立ち尽くす俺たちの横を通ってデイルームから出ていった。
全身から力が抜け、立っていられなくなった俺はその場に座り込み、床を見たまま顔を上げることができない。
そんな俺の隣に良美が屈み込み、背中にそっと手を添えた。
「あなた、本当に蛍ちゃんと会ってたの?」
言葉を発することもできず、コクリと頷く俺を見て良美は唾を飲み、ゆっくりと言葉を続けた。
「あの人の話が本当なら辻褄が合うんじゃない? お店で一人で喋ってたの、他の人から蛍ちゃんが見えなかったからって……。あなたをお父さんって言うのも日記が見つかったのも、家具が揺れたり電気が点いたり消えたりしたのだって、信じられないけど、蛍ちゃんがあなたに会いに来たって……」
「蛍は死んでない!」
怒気を含んだ俺の言葉に、良美は体を震わせ顔を硬直させている。
その良美の顔を見てハッとし、俺は再び下を向いて小さな声で呟いた。
「蛍のことも癌のことも、いろんなことが一気に起こって頭がおかしくなりそうだ……」
自然と涙が溢れ、床にこぼれ落ちていく。
視界が歪み、目の前の床の模様が滲んで見える。
床に座ったまましばらく泣いていたが、良美に抱えられるようにして立ち上がると、病院の長い廊下を、涙を拭うこともなく緩和ケア病棟に向かって歩いていった。
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