Autographic 第十四話:山犬

創作長編小説

 熊は後ろ脚で立つのを止め、再び前脚を地に付けて川の中を僕の方に向かってゆっくりと歩いてくる。野犬を見ると、熊を睨んだまま歯をむき出して唸り声をあげ、熊を威嚇していた。

 川のせせらぎと体をすり抜けていく風だけが時の流れを教えてくれる、空気も固まるような緊張した空間で野犬は岩を降り、僕の前を通り過ぎて熊に向かって歩いていく。野犬がいた岩の上を見ると、もう一匹の野犬が三匹の子犬を連れて立っているのが見えた。

 子犬が全部で何匹いるのか分からないが、おそらく僕は、この野犬たちの縄張りの中に迷い込んでしまったのだ。そして熊も、野犬の縄張りで魚でも捕っていたんだろう。野犬は群れを守ろうとして大きな熊に立ち向かってるに違いない。

 恐怖で脚が竦み、逃げたくても逃げられない僕の目の前で、今にも熊に飛び掛かりそうな野犬。だが、子犬を連れた野犬が動く気配を感じると同時に、熊は川の中で歩みを止めた。

 しばらく睨み合ったと思うと熊はプイと横を向き、方向を変え下流に向かって川の中を歩きはじめたが、それでも野犬は熊を睨んだまま唸り声を出している。

 ――どうやって野犬から逃げる?

 それだけを考えながら、熊に向かって唸る野犬から子犬を連れた野犬に目を移すと、もう一匹の野犬は子犬と共に姿を消していた。

(今だ! 熊の姿が見えなくなる前に逃げよう!)

 痛む右脚を引きずりながら、上流に向かって岩の上を数歩移動したときだった。

 僕の背後から、熊と対峙していた野犬が姿を現したのだ。

 野犬は右横から顔を覗かせ、僕の周りを回りながら体の匂いをクンクン嗅いでいる。

(こいつ……僕を獲物だと思ってるのか……?)

 近付いてきた野犬は、あきらかに中型犬のゴローやハナより大きい。秋田犬やシェパードくらいの大きさだろうが、襲われたら撃退できる自信はない。

 震えながら、おじさんから鉈でも借りておけばよかったと後悔していると、野犬は捻挫した僕の足首を靴の上からペロペロと舐めはじめたのだ。

 食べられる動物か確かめてるんじゃないかと思ったが、足首を舐め終わった野犬は前脚を僕の胸に掛けて後ろ脚で立ち上がり、僕の口を舐めはじめた。

(あれ……?)

 犬が口を舐めるのは、自分より上位の者への挨拶だ。もしかしたらこの野犬は、山の中で生まれた犬ではなく人間に飼われていた犬かもしれない。大型犬になると、躾ができない飼い主などは体力負けして満足に散歩もさせられず、犬を保健所に持っていったり山中に捨ててしまうと聞いたことがある。

 野犬は僕の口を舐めるのを止め、岩の上を上流に向かって歩いていき、何個か先の岩の上で立ち止まると振り返って僕を見た。

 まるで「付いてこい」とでも言いたげな野犬に興味を持ち、後に付いて歩きはじめると、僕を見ていた野犬は再び上流へ向かって歩きはじめた。

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